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適応について
人間が環境の条件と調和的な関係とあるが,調和的な関係の良い悪いや,幸福感というものは,社会が作り出しているものだと感じました。
適応に関して,ここの欲求を満たせているかは自分でわかることだけど,環境と適合できているのかは自分でわかることができるのかと疑問をもった。自分で適合できていると思えば適応していることになるということなのか。
“環境の条件と調和的な関係”の中には人間関係も含まれるのか。人間関係にも様々な形があるが,必ずそこに調和できなければ不適応となるのか。
自分を後回しにして,他者の手助けをするには,自分の中に余裕や抱負な資源,また自分が満たされているという感覚がないと難しいのではないかと思った。また,そのような行為を促進させるものとして,キリスト教でいう隣人愛などがそれに当たると感じた。
自分よりも他人に金を使う方が幸福であることが理解できない。人間は利己的な生き物でしかないと思うのだが。
実際に幸福感はどのようなものなのか大きい小さいの値で示すことはできるものなのか疑問に感じた。
幸福感が高まる条件として他者を幸福にすることが挙げられるのは,脳は潜在意識的に自分と他者を区別することができないからなのか。
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感覚・知覚について
感覚→知覚→認知という流れでなければ人は認識できないのですか?それとも感覚→認知というように1つの過程を飛ばして認識することはできますか?
ルビンの盃の様な図地反転図形では,盃か人の横顔かをとらえる際,見る人の意識により,どちらがとらえやすいのか変わるのかなと思った。反転図形で,もし片方しか捉えられない場合,その人の意識的にとらえる知識がないからだと言えるのですか?
多義図形が反転するプロセスの説明として,知覚理論と認知理論のどちらがより有力であるといえるのか疑問を抱いた。また,反転させる処理の仕方は,子どもと大人同じであるのか。異なるのであれば,発達の段階において,いつ,どのようにして,図と地を知覚するようになるのかが気になった。