- 認知的倹約家について
知らないお店に行列ができているから,ここのお店はいいところなのだろうと考えるのが認知的倹約ということになるのでしょうか。
誰しもステレオタイプや偏見を持っているはずだが,偏見や差別を表に出す人こそそうでない人に比べてさらにケチだと思った。
私は,「認知的倹約家=ある種,考えることをやめた人」だと思うのですが,豊かな時代,貧しい時代での認知的倹約度の違いが気になりました。
また,ステレオタイプについて,老人が偏見の多い人やステレオタイプの人が多い気がします。これは偏見でしょうか?それとも年と偏見は関係しますか?
- 対人認知について
他者(友人)のことを自分ではしっかり理解してるつもりだと思っていたけど,それはある意味自己判断の部分が多くて,実際に友人のことをしっかり理解することはできないのかもしれないと思った。家族でもそういうあいまいな理解があるかもしれないと思った。
今日の授業の対人認知について,私はよく「あんたならこれぐらいできるでしょ」と言われたり,「あなたは真面目だからグループに人が少なくてもきっといい案が出せるよ」と根拠もない評価を受けることがあり,そういうのが嫌でわざと不真面目なことを行ったりして,自己評価を下げようとしたことがあり,前に授業で行った自己呈示につながることだなと思った。
また,ステレオタイプについて,東大や京大などと行った有名大学の学生たちは,周囲の人から「すごい人」「頭のいい人」と勝手に評価を受けるが,その他のあまり有名でない大学の学生はあまりそういうことはないなと思った。
自分が持っているイメージで他人を見てしまい,「こんな特徴があるからこの人は◯○だ」と誤った考えを持ち,それにもとづいて行動してしまうことは危ない部分があると感じました。人を差別,排除したり,「最近の若い人は…」というような考えがなくならないのは,それだけ多くの人々が無意識に暗黙裡の性格観というものを持っているからだと思いました。
良いイメージと悪イメージの国をあげたとき,普段のニュースから本当は良い部分があるかもしれないのに,悪いニュースばかり耳にしているから,その国は不幸または悪いイメージがついてしまうので,自分の憶測にすぎないのかと思った。
対人認知はいつも一緒にいたりして,その人をある程度知っていたら適応される〔原文ママ〕と思う。けれど,そこまで親しみがない人だとどんな人か,どのような行動をするのかは予測できないと考えた。でも,夜など街に出たときに,あの男の人たち,あの女の人に声かけそうなどといった行動は読みやすいと思った。その差は何なのだろうと不思議に思った。